絹は上品で見栄えが良く、高額だが誰でも欲しい物。しかしちょっと古くなるとどうにもならない。もう使うことができない。
麻は
木綿は誰でも使っている物。ありきたりの物だが、これほど使い勝手の良い物はない。服にしたら、冬は暖かく、夏は汗をよく吸い取る。汚れても気軽に洗えて、着られなくなっても、雑巾にして、形が無くなるまで使うことができる。
心も木綿のようでありたい。
見栄えにこだわらず、誰からも使ってもらえる、重宝される心を作ってゆきたい。
使いにくい道具なら、一度二度ほど使って、
「やっぱり使いにくい」と見向きをされなくなったり、捨てられてしまったりする。
しかし使いやすい道具なら、いつまでも大切に使って、壊れてもなんとか修理して使おうとする。
これと同じで、木綿の心のように重宝される心なら、誰にでも大切にされていつまでも使ってもらえる。
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素直な心
画家のピカソが晩年に残した言葉。
「先人たちが残した様々な技法は10代でマスターした。しかしこの歳になって、ようやく子供のような絵が描けるようになった」
絵画についてあまり詳しくはありませんが、「キュビズム」という技法を確立した第一人者。失礼な話ですが、子供の落書きのような絵という感想を持っていました。
しかしピカソの描いた絵はとても高い評価を得ていて、とてつもない金額が付いています。
その絵をピカソが「子供のような絵」と評してします。
そして、
「子供は誰でも芸術家だ。問題は、大人になっても芸術家でいられるかどうかだ」
とも言っています。
私はこの言葉を聞いて、思ったのは、心も同じではないかという事。
子供心の素直さは本当に素晴らしい。素直に言われた通りに行動し、どんどん成長(スキルアップ)してゆく。言われたことを疑わないので、信じて行動できる。それが歳を重ねるうちに素直さが失われてゆく。
いつからややこしくしてしまったんだろう。
いつから人を、そして自分を疑うようになったんだろう。
もっと素直に行動できるようになりたい。
ふっと浮かぶ神心、後から濁す人間心
自分の夢に向かって行動を起こす時、「あれを実行すると良いだろうなぁ」と思い浮かぶ時がある。それが「神心」
神様が「これをしなさい」と教えてくれている。それをそのまま素直に実行すれば自分の成長に繋がる。
しかしそれを邪魔するのが「人間心」
忙しい、時間が無い、お金が無い、今はまだ早い、もっと環境が整ってから、そもそも面倒くさい・・・
と、先延ばしにしてしまう。
すると、せっかく思い浮かんだ事を実行するのがどんどんハードルが高くなり、動き出すのに大きな力が要るようになる。旬を逃してしまったり、忘れてしまったりする。
だから、「人間心」が浮かんでくる前に、まず行動することが大切。
思い立ったが吉日!即行動!
そうすると案外うまく行くことが多い。
自分の機嫌は自分で責任を持つ
どんなに辛いことがあっても、どんなに悲しいことがあっても、どんなに苦しいことがあっても、それは全て自分の都合。もちろん落ち込んだり、悲しくなって泣いたり、全て投げ出して逃げたくなる。自分一人の時はどのように振る舞っても問題ないと思います。
しかし、そのことに腹を立てて、キツい言葉で人に八つ当たりして傷つけるのはもったいない。
どんなに不幸を吸い込んでも、吐く息は感謝でありたい。
どんな出来事も自分を成長させるために、神様が用意してくれた教科書。
…って思えたら本当に最高だと思いますが、なかなかそうはいきません。
つい「なんで自分だけこんな目にあうんだ」と悲観的にとらえてしまう。
どんな逆境の中でも「感謝」を忘れなければ、心は腐らず耐えることができます。
どんな種も腐りさえしなければ、いつか芽が出て花が咲き、実を結びます。心も同じで、腐らさずに、逆境の中を耐え忍べば、必ず成功に繋がります。
そして「感謝」を忘れないために必要なことは、たった一つだけ。
「ありがとう」
と言葉に出して言う。これだけです。
当たり前のことですが、この一言で心の状態が大きく変わります。
当然、その場で言えれば、それに越したことはありませんが、はじめはなかなかハードルが高いので、一人になって、しばらくしてからでもいいので、言葉に出すと、不思議と心が軽くなります。
ありがとうは相手だけではなく、自分も幸せにしてくれる魔法の言葉。
「願い通り」ではなく「心通り」
心は種
願い通りではなく、心通りに現れてくる。
種は蒔いてしっかり世話をすれば、種の通りの花が咲き、実がなる。
大根の種を蒔けば、大根が、トマトの種を蒔けばトマトが実る。
大根の種を蒔いてから、やっぱり人参が欲しいからと、毎日必死になって
「人参が実りますように。」
と神様にお願いしても、実るのは大根。決して人参に変わることはない。
人参が欲しいなら、大根の種を掘り起こして、人参の種を蒔く必要がある。
心も一緒。
どれだけ必死に願っても、願うだけでは何も変わらない。
心を入れ替えるための実践をする必要がある。
どれだけ良い行い、人の為に尽くす行いをしていても、心で
「面倒くさいなぁ。なんで自分がこんなことしないといけないのか。誰かやっとけよ。」
と不足に思っていたら、周りに映るのは不足の姿。
その実践は実らず、誰にも届かない。
「嫌々やらされているんだなぁ」と思われてしまう。
不足の心を感謝の心に入れ替える必要がある。
ではどうするのか。
感謝の言葉「ありがとう」と言いながら行動する。
一人で行動するときなら口に出して呟きながら行動してもいいし、複数人で、または周りに人がいる状態で、声に出すのが難しい場合は頭の中だけでもいい。
できる限り「ありがとう、ありがとう、ありがとう…」と言い続ける。
もちろん頭を使ってする行動の場合は難しいが、隙間スキマでもいいので言う。
特に、ネガティブな感情、言葉が出てきそうになった時、この時は必ず「ありがとう」と言う。
こんなことで「感謝の心」に入れ替わるのかと疑問に思うが、バカにできない。
人はポジティブな事とネガティブな事を同時に考えるのは難しい。
「ありがとう」はポジティブな言葉。
「ありがとう」を言い続ける、考え続けることで思考がポジティブになってくる。するとネガティブな考えが押しやられる。
決して無くなるわけではない。それでも言い続けている間は表に出てこない。
頭の中をポジティブで埋め尽くして、ネガティブの入る隙間を無くしていくという考え、これで「感謝の心」に入れ替えていく。
今日初めて明日に変わる、というものではないが、確実に変わっていくことができる。
何より、ネガティブな事を考えながらの行動と比べると、疲れ方が全く違ってくる。
「ありがとう」と言いながらの行動は不思議と疲れにくい。
ポジティブになるだけでなく、作業効率まで上がる。
しかしこれも願うだけでは変わらない。
実際に「ありがとう」と言いながら行動する実践が無ければ「感謝の心」に入れ替えることはできない。
実践して、少しずつ心から感謝の心を作っていく。
そして、どんなに小さなことでも、感謝の心でさせて頂くことができれば、自分の身になり、成長につながる。
願う前に、まず心を定めるのが第一。
言葉は人を傷つけない【傷つけるのは届かない自分の心】
言葉は人を傷付けない。
言葉に気を付ける、自分の言葉に責任を持つ、出した言葉は戻らない。言葉に対する注意をよく目にしたり、聞いたりします。自分の発する「言葉」で相手を傷付けることがあります。
確かに、「暴言」と言われるものは直接相手を傷付けてしまう。しかし、そうでない場合の方が多いように思います。自分の何気ない言葉が相手を傷付けて、しかも気付かずにいる場合が多い。
また、何を言っても笑って許される人もいます。仮に暴言を言ったとしても、笑いに変えてその場を和ませる人もいれば、
逆に何を言っても相手を嫌な思いにさせてしまったり、傷付けてしまう人もいます。
同じ言葉を話したとしても、話し手によって相手に伝わる意味が大きく変わります。
私自身も何度も失敗しています。ある時は「アルバイト」という言葉で人を残念に思われてしまった事があります。この言葉は暴言でもなんでもなく、色々な方が普段から使っている言葉だと思います。
ではなぜ残念に思われてしまったのか。同じ言葉でも使う人によって、相手への伝わり方が違うのか。
それは、その人の心に有るのではないかと思います。
自分の心が届いていないから、相手に伝わらない、傷つける、残念に思われてしまう。言い換えれば、その人との関係が良くないのだと思います。普段から良好な関係であれば、大抵の事は笑って済まされたり、良い受け取り方をしてもらえたりします。しかし関係が良好でなければ、何を言っても悪く取られてしまう場合があります。
自分の言葉を相手がどのように受け取るかは相手次第。自分が相手に「このように受け取ってください」と言っても、相手の受け取り方は変わりません。自分にはどうすることもできないのです。
では、この言葉は使わない方がいい、これも、あれも…
これではどんどんNGワードが増えていき、ついには話ができなくなってしまいます。
そうではなくて、自分が唯一変えることのできるもの、「自分の心」をしっかり磨いていれば何を言っても大丈夫ではないでしょうか。
言葉のせいにしない。届かなかった自分の心を反省し磨き続ければ、何気ない一言で人を傷つけることも無くなるのではないかと思います。
では、どのように磨いていくのか。それは感謝の心を積み上げていくのが大切。
受けた恩は絶対に忘れない。
人に会ったら、まず何かお礼を言うことがないかを考えるのです。
挨拶をしたら、プラスアルファお礼を言うのです。
「おはようございます。先日は〇〇ありがとうございました。とても楽しませて頂きました。」
何もないのなら「いつもありがとうございます」でもいいので、とにかくお礼の言葉繋げることが、感謝の心を積み上げていくことではないかと思います。
また、お礼は何度言ってもいいと思います。いや、何度も言わなければならないものだと思います。
例えば、上司など目上の人に食事に誘われ、楽しく食事を済ませて、奢ってもらった時、店の外で「ありがとうございます」のお礼だけで済ませてはいないでしょうか。
そうではなく、家に帰ってからメールやLINEなどでその日のお礼をもう一度伝え、更に、翌日に会えるなら、その時に、会えないなら、次に会った時にもう一度お礼を伝えるのです。
これをする人と、しない人では、上司がへの印象は確実に変わってきます。これが積み重なっていくことで、良好な関係に繋がり、「何を言っても許される人」になっていくだと思います。
(かと言ってわざと失礼な言動をしても良いという事にはなりませんので、ご了承ください。)
名前を呼んだら呼んだ人が入ってくる
呼んだ人が寄ってくる。
「太郎君」と呼べば太郎君が寄ってくる。
「花子ちゃん」と呼べば花子ちゃんが寄ってくる。
自分が声に出して呼んだ人が、ちゃんと寄ってきてくれる。
じゃあ「疲れた・辛い・しんどい」と口に出すとどうなるか。ちゃんと疲れた人生、辛い人生、しんどい人生が寄ってくる。そんな人生が寄ってくると、ますますマイナスな言葉を口に出してしまうという悪循環。
それなら「ありがとう」と口に出すとどうなるか。やっぱり、ちゃんと感謝の人生が寄ってくる。するとまたありがとうって言える好循環。ありがとうは魔法の言葉。
変えられるのは自分だけ【他人を変えようとしない】
人は責めない。でも自分はさせて頂く。
この世界で、自分の力で変えることのできるのは「自分の心」だけ。
でも、ずっと「あの人はこうだ、この人はああだ」と不足に思っては相手を変えようとしていた。
しかし、人には、自分以外の人を変える力はない。なのに人を変えよう変えようと無駄な努力をして、ストレスを溜め込んでしまう。なぜか?それは自分を変えようと努力しだすと必ず見えてくる、
「努力していない人」
自分が頑張って変わろうとしているのに、隣で何もせずにボーっとされるとどうしても気になる。それだけならいいが、努力している自分をバカにしたり、「お前には無理だからやめておけ」と反対されたりする。
そうなると、こちらも黙っていられなくなる。つい正論を振りかざして責めたり、相手も努力するように説教をしたりしてしまう。
しかしそうではない。
何度も言いますが、自分に変えられるのは自分の心だけ。
自分の心が変われば、言動が、結果が、環境が、運命が変わってきます。
つまり、努力していない人が目につくという事は、周りに努力していない人が居るという事。
「環境」が変わっていないのです。
環境が変わっていないという事は、まだ自分の心が、本心から変われていないという事。本当に心の底から「自分は変わる、変われるんだ!その為に努力を積み重ねていく」と変われたら、環境が変わる。自分の周りに「努力している人」が集まってくるのです。
だから、周りの人は気にしなくていい。
どんな態度の人がいても、馬鹿にする人がいても、反対や邪魔をする人がいても、気にする必要はない。ただただ、自分の夢に向かって目の前に起こってきた事を真剣に勤めさせて頂けばそれでいい。
癇癪は自分の苦しさを解消したくて起こってくる
癇癪は自分に起こってくる不都合を、苦しさを解消したくて起こってしまう。
赤ちゃんの時は言葉で伝えることができなくて、
お腹減った
眠たいのに寝れない
かまってほしい
オムツ変えてほしい
などなど、自分に都合の悪いことを何とかして欲しくて泣き叫び、癇癪を起します。そうすると親が食べさせてくれたり、あやしてくれたり、オムツを変えてくれたりと苦しさを取り除いてくれる。
赤ちゃんにとって癇癪は、何らかの不都合を取り除くための手段となっています。
しかし大人になるにつれて、「我慢」を覚えます。これは円滑なコミュニケーションを取るにあたってとても大切なことです。誰かに指摘されたときや、怒られたとき、マイナスの感情をそのまま相手にぶつけるのではなく、柔らかい表現を用いたり、ひとまず謝り、自分の中にいったんしまって後で反省したり。
しかし、ずっと我慢を続けられるほど人間は頑丈ではありません。また、いつも我慢をできる精神状態でもありません。自分にも都合があります。
「自分の都合なんて相手には関係ない!」
なんて声も聞こえてきそうですが、いつも笑顔で冷静に、誰に対しても態度を変えず真実の姿で接することのできる人なんていません。私の経験上ではありますが、そんな聖人君子のような人とは会ったことはありません。
感情の浮き沈みがあり、また沈みっぱなしの時もあります。そんな時に、自分に不都合なこと、苦しいことがあると我慢できなくなり「癇癪」を起こしてしまいます。
では、どうするのか?
癇癪を起してしまう前に、距離を置く。
環境が原因ならその環境から、
人が原因ならその人から、
思い切って距離を置いて冷静になるのが大切だと思います。ずっと我慢を続けて、爆発してしまったら、お互いに不幸になってしまいます。
癇癪も「苦」が無くなれば感謝になります。
一度距離を置いて、冷静になれば、言われたことを反省したり、自分の行動を振り返ったりして、「確かにそうだったなぁ」と思えるかもしれません。そうなれば、言ってくれた相手に感謝することもできると思うのです。
自分の感情が落ち込んでいるときに、無理に受け止めて何とかしようとせず、まずいったん距離を置いて、自分の感情を上げていく努力をして、冷静になることが先決。
無理な我慢はしなくていいと思います。
ありがとうございました。
自分の名前は言えますか?【名前を迷いなく言えるということは・・・】
あなたは自分の名前が言えますか?
当然、自分の事ですので、言えない人はいないと思います。でも、自分が生まれた時の事を、自分の名前を付けて貰った時の事を覚えている人はいないのではないでしょか。
ではなぜ、自分の名前を言えるのか?
それは親に教えて貰ったから。
教えて貰ったことを、何も疑うことなく受け入れて、信じて今まで使ってきたと思います。
「いや、自分の名前は違うんじゃないだろうか?」
と疑っている人はいないでしょう。当たり前に呼ばれて、当たり前に使っている自分の名前。でも無かったらとても不便になると思います。誰にも呼んで貰えない寂しさ。そんなことはあり得ないですが、考えると本当に辛く寂しいことだと思います。そう考えると、名前は初めて親から貰える、そしていつまででも使うことのできる、最高のプレゼントではないでしょうか。
どんな思いで付けてくれたのか聞いたことはあるでしょうか。きっと素敵なエピソードが聴けると思います。名前を付けて貰える幸せ、名前を呼んで貰える幸せ。もうそれだけで、感謝しかありません。
さぁ、親孝行。
電話で、名付けのエピソードを聞こうかな!!