起こってきた事に対して、どれだけ喜ぶことができるか。それは全て自分の心が決めている。
自分の心を「分母」とすると、起こってきた事柄が「分子」で表す。
「事柄/自分の心」
例えば、お年玉。お年玉を3万円貰ったとする。すると分子(事柄)は30,000となる。そして自分の心、予想が「今年は3万円貰えるだろうな」と思っていたら、分母(自分の心)は30,000となる。
「30,000/30,000=1」
あまり喜べない。
もし予想が「10万円貰えるだろうな」と思っていたなら、
「30,000/100,000=0.3」となり、さらに喜べない。
では逆に予想が「今年は1万円だろうな」と思っていたら、
「30,000/10,000=3」となり、結構喜べるようになる。この予想、自分の心が小さければ小さいほど、喜びが大きくなるのです。1万円ではなく、5千円なら、千円、5百円、百円…
どんどん喜びが大きくなります。そして、ついに「0円」になったら。「今年はもう貰えないだろうな」と思っていたところに、3万円のお年玉が貰えたらどうでしょう?
「30,000/0」
この数式は本来成り立たないのですが、答えは「0」ではなく、割り切れない大きな数、「無量大数」となります。「∞」です。
貰えないと思っていたところに、突然3万円の臨時収入が入ると、喜びもとても大きいのではないでしょか。今度は逆に「事柄」、貰えるお年玉が1万円ならどうなるかというと、分子が3万から1万に減りますので、
「10,000/0=∞」
貰えるお年玉が千円なら、
「1,000/0=∞」
百円なら、
「100/0=∞」
一円なら、
「1/0=∞」
どうでしょうか?もうお気付きだと思いますが、自分の心が小さく、小さく、「0」の状態なら、どんな小さなことでも、大きな喜びを感じることが出来るのです。
例えば、いつも上げる側の親の立場、毎年毎年、子供たちにお年玉をあげるでしょう。子供たちの喜ぶ顔をみて自分も嬉しくなります。そんな中に、サプライズで、子供のほうから「今年は僕があげるね」と言ってきたら、たとえ百円でも泣くほど嬉しくなるのではないでしょうか。
どうかすると、貰えることが当たり前になって、感謝の心が薄れることが多々あります。お年玉もそうですが、日々の生活の中で、与えてもらえることを当たり前と感じて、自分の予想が、心が大きくなっていないでしょうか。極端な話、明日自分の命がある保証はどこにもありません。それでも「明日も生きているだろう」という甘え、予想、自分の心が「当たり前」を作っているのです。そうではなく、「明日は死んでしまうかもしれない」と思ったら、朝目が覚めることに涙を流して喜ぶことが出来ると思います。これが小さい心、「0」の心だと思います。しかし、私は有難いことに(この場合は違うかもしれませんが)、そこまで大きな病気、命にかかわるような病気はしたことがありません。そんな私が、「明日死んでしまうかもしれない、だから今日を精一杯生きて、明日目が覚めたら、精一杯喜ぼう」と考えても、なかなか実感がわきません。頭で分かっていても心がついてきていません。まだまだ心が大きいのでしょう。そんな私が心掛けていること、それはどんな小さな喜びでも、目いっぱい喜ぶこと。まだ生きていることだけで喜ぶことは、残念ながらできませんが、それでも、小さなことでも喜ぶことが出来たら、それを続けることが出来たら、いずれ自分の心が小さくなっていくと思っています。いつか自分が生きていることに感謝できるように、今日も精一杯喜びを感じてゆきたいと思います。ありがとうございました。